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7/16のご報告

日本中が一斉に梅雨明けしましたsun

しかし、湿気がすごいですね~mist台風の所為みたいですが。

●「宿題」プリントについて

前回は、あるブログでのやりとりを読んでいただいて、
皆さんに感想を言って戴くということをやってみました。

懐疑論者、科学に立脚点を求める人々が
「非科学的なことを科学的なことのように言って儲けようとしている人の主張がいかにおかしいか」
という事をそれぞれ調べて議論しあっている場に、スピリチュアルなことが大好きらしい人が現れてコメントを残すわけです。
おそらくインターネットでキーワード検索すれば、すぐに話題に参加できるんですよね。
参加しに来た人は、ごく「良心的」で「良いこと」を実践しようとしている人のようです。
取り上げられていた教育方法の「ESP」は必要じゃないと思っているけれど、
脳障害を持った5才の子どもが文字盤で「愛」や「平和」を大人に語るのは
無条件に「スゴイ、素晴らしい」と感じている。
「魂」とか「霊性」を磨いていけば、徳が高くなって健康になれたり、
災害でも生き残れたりする…だからポジティブに生きていけばいい。
「奇跡の水」がミネラルウォーターと同じお値段で手に入るのであれば、別に抵抗はないし、
その周辺でお味噌やお醤油を売っているのも「健康食品」なんだからOKだと思う。
こんな感じではないかなと思うのですが。

私の意図としては、
「スピリチュアル」なものと親和性の高い人々の周辺には、「健康」「自己啓発」「エコ」「ロハス」
「科学用語」「潜在する無限の可能性」「自然は素晴らしい」とかいろいろつながってくる傾向があるが、
(スピリチュアルをキーワードにどんなスポンサーがつくかは、下の欄をご覧頂ければ分かると思います)
「よいこと」でとにかくくくってしまうと、結構怖いことが入り込んできてしまい、
その境界線が本人達には非常にみえにくいということを
現在進行形で起こっている、実際の例として見ていただければ…という事だったのですが…。

皆さんの反応としては、
「インターネットでのやりとり」が本当の意味でコミュニケーションなのか?
という疑問の声が多かったように思います。

確かに、インターネットでのやりとりで、感情的、意図的に相手を罵倒するような一行のコメントで埋め尽くされるところがあるのも事実で、
これが本当の意味でコミュニケーションが成立しているのか…大いに疑問だと思います。

本来私達人間は「視覚」領域がコミュニケーションにおいて重要なわけです。
おサルの特徴として。

例えば■>>> 視覚と聴覚が矛盾すると視覚情報を使う。「マガーク効果」
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/brain/brain/index.html
興味がある方は読んでみてください。

ですから、文字・文章だけのやりとりで欠落してしまう部分は沢山あります。
画面に現れる文字だけのコミュニケーションは空しいと思われることはよくわかります。
それに「議論」が一方的な結論のない言い合いと映ることもあるかな、と。
特に専門的用語が暗黙の前提として出てくるインターネット上のコミュニティが排他的に感じられることもあると思います。

しかし、一方で私達人間が文字を発明したことで「知識」として伝達し、
ゲノム情報以外のところで次世代に「文化」として引き継いでこられたわけです。

知識の蓄積があるから、今の私達があることも忘れちゃならんと思います。
「今の私の感覚・体験」が大切だという主張もありでしょうが、
これらの蓄積を利用しないのも勿体ないと思います。

「知識の蓄積」にはいろいろな方法があり、
書籍であったり、口伝であったり、儀式であったりするわけですが、
その過程では、いろいろな「議論」があったはずで
「議論」を経ていない知識はかえって怖いと思うのですよ。

ですから、「学問」や「科学」で論文になってないとだめだよ…とよく言われるのは、
それによって誰かが追実験できたり、反証できたり、矛盾を指摘できるからなんですね。

手続きや方法、仮説を立てた歴史的な背景とか、すべてオープンにしましょう
ということです。その上で、議論をして行こうという姿勢です。


別に世俗的な権威があるからという意味ではないんです。
(勿論それなりの雑誌に論文が掲載されるということは、査読がきちんとされているから
とりあえず信用できるという意味で「権威」であると言えるかもしれません)

そうした過程を経て、煩わしい手順や数値をなるべく使わないで書物にまとめるという形はあると思うのですが、いきなり書物になってる時は、読み手が批判的に読み解いていくしかないということです。

これまでは、論文書いて、議論して、一定の結論が出て、私達が手に出来る「書物」になって流通するというところまで、
すごく時間がかかりました。
現在起こっている現象について取り上げることがとても難しかったわけです。
ところが今、インターネットを使うと、いろいろな人がいろいろな場所にいても、
いろいろな情報を持ち込んで「議論」出来るんです。
肩書きがなくても、インターネット上では自分で思考すること、調べることができれば、
参加出来ます。

反対に「思考」することをしなければ、あるいは自分で「情報」を集めに行かなければ、
他者にその手間を委ねた分、リスクを負う覚悟が必要だということですね。

「議論」するということも、実のところ、日常生活でよく経験していることだと思います。
職場や地域で「会議」だの「ミーティング」だのあるのは、「議論」するためですね。
他者と対立点が明らかになってしまうと困った状況になるので、
それをなるべく避けたいという心情が働くのは分かるのですが、
「議論」と「非難」は異質のものと考えた上で議論に参加していくのは必要なのではないかと思います。
参加しないまでも、「議論」を辛抱強くウォッチングできることも、「市民」「消費者」として大事では…と私は思うのですが。
前にも「メディアリテラシー」でお話ししたように

「科学の話は分からないから読んでも仕方ない」→思考停止

はやめましょうよ~ということです。

「情報」を集めることに関しては、まずはコツコツ図書館行って、本を探して読んでみる
というところが基本です。
しかし、今はさきほどURLをあげたように、直接Web上で読めるものも多いのです。
政府の調査や研究の結果も、ほとんどインターネットで読むことが出来ます。
本も、いろいろな人のレビューを読めば、それを参考に選択できます。
インターネット上ではそれが簡単にできます。

しかし、一方で、インターネット上の情報は膨大で玉石混淆で、
読み手の「リテラシー」が求められます。
それらを取捨選択していくのは、実は手間がかかります。
この新しい技術をどううまく使いこなしていくかは、みんなが「議論」しなくてはいけないと思います。
「分からない」で終わらせないで。

私達が今困っているのは、
子どもの頃からこの混沌とした状況に触れることができる学生が、
「リテラシー」をちっとも身につけていないことです。

「レポート」を課題として与えると、簡単にインターネット上の情報をコピペして提出してくるのです。
もちろん、「引用した」なんて、一言も書いていません。
・人が考えたことを自分が考えたかのように書いちゃいけない
・引用したり、参考にしたものは、きちんと明示する
というルールはまるで彼らの中に無いようです。

調べることは良いことです。ただ、それは「調べた」事で「自分が考えたわけじゃない」
ときちんと書かなくちゃダメです。

ちょっと前までは、文体や知識の量から「これ、コピペしてきたでしょ」
と指摘できたんです。
ところがですね、今、それなりの文体や知識で書かれたレポートを
サイト上で「売っている」んですよ。
多分、学生が自分で書いたレポートを掲載して、同じ様なテーマでレポートを書かなくちゃいけない学生が、それをダウンロードして買うんですよね。
こうなると、もう「レポート」課題を出しても、何の教育効果も望めないことになります。

それが、小学生でもあるという話題。
■大学生から小学生まで 「ネットでコピペ病」蔓延
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080720-00000001-jct-soci

なかなか難しいですね、「道具」を使うのは。

最近、テレビを見ていて、CMがちょっと前までと違うな?と思われることはありませんか?
この商品の購買層がこの番組をみていると想定している、とすると
見ている自分はどう想定されているんだろう?とか、
「詳しくはweb上で検索」っていうのが多いということは、
実際購買層を説得するには、webでの情報の方が有効だということなのかなとか…。

テレビというのは「視覚」に訴えるものなので「情緒」的に作用しやすいですね。
良い面もあれば、困った面もある。
このあいだ、TBSの食糧問題を扱った番組見ていたんですが、
新しい事実を発掘した…というのは報道機関として評価するとして、
(本当に新しい事実なのかは、私の専門外なので、よく分からないです)
なんか、ものすごく恣意的な映像ばっかり切り取っている気がして
なんとなく納得できないところが…。
「わかりやすくて」「情緒に訴える」のは「この道はどこか来た道~♪」
を繰り返す可能性も持っているのでは???
「身土不二」とか「地産地消」とか、使い出した時代背景とか思想とか、
調べた上でこのコメンテーター達は使っているのだろうか?と思っちゃう。
「自然=良い」「日本=素晴らしい」「人工=悪」「アメリカ=陰謀」
の単純二分法はわかりやすいけれど「思考停止」にさせられちゃうなぁ。
食糧自給率を上げていくことはとても緊急の課題でしょうが、
それに「アメリカ陰謀論」は必要か???
(もちろん、私はアメリカが全面的に正しいことをした国だと言っているわけではありません)

読んでいただいた文章がらみで…

右脳と左脳の違いについて、科学的根拠が本当にあるか?について知りたい方
こちらを参考にしてみて下さい。
■脳のお勉強会 右脳と左脳の違い  
http://www.brain-studymeeting.com/dif/lr/

何らかのハンデを抱えている子どもを大人達が担ぎ出すと、あまり良い結果にならないという一例として…
■NHKスペシャル『奇跡の詩人』問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E8%A9%A9%E4%BA%BA

●ターミナル・ケアにおけるスピリチュアルカウンセリングの実践
前回、ターミナル(終末期医療)の場で、どのようなカウンセリングが行われているか
ということについて、ちゃんと時間をとれなかったので、
ここに書いていきます。

『なぜ私が死ななければならないのか』(精神的なあるいはスピリチュアルな痛み)
という問いに対し
○原因説 例えば科学ではこの状況で事故になる確率が何%あったかとか、
 日本人の死因の第1位は癌ですといった説明。
○人知不可知論 それは「神の思し召し」であって人間の知るところではないという説明。
○過去世来世論 「因果応報」であなたに何らかの責任があり、来世で子孫が一所懸命  供養すれば成仏できるという説明。
これらでは「私が死ななくてはならない必然性」を完璧に説明できない。
ということが、既成宗教や科学がターミナルケアで機能していない理由であるという考え方があります。

それでは、私達には何ができるのでしょうか?

◇「こんな状態で生きていても仕方ない」「何のために生きてきたのか」と嘆く患者さんに
「あなたが今できることはないですか?」と声をかけてみます。

例えば、貯金や生命保険はどうなっているか調べたか?
形見分けをしておきたい人はいないか?
自分の葬儀について希望は伝えてあるか?
お礼や謝罪をしておきたい人はいないか?
お墓はどうしたいか?
「ああしろ、これがいい」という押しつけはダメです。
患者さんが自分で手を付けたいと思ったものをやってもらうのがいい。

「これをやっておきたい」と思うと、急に忙しくなって、生き生きしてくるのだということです。

死期への準備、末期の多忙ともいうべきもの。
「死」へ触れるのがタブーのように思われますが、これらを真剣に考えることで、
自分の死を受容できるのでは。

看護の学生がよく「末期患者とどう向き合えばいいのか?」という質問をします。
その時私は
「患者さんとそれを取り巻く人たちが最期に『ありがとう』を言える環境作りを」と話します。
「有り難う」をお互いが言えたときに、死の理不尽さとお互いにわだかまっていた人生の出来事も許容出来る気がします。
(実際、祖父が亡くなったとき、可愛がっていた猫が死んだとき「有り難う」と言えたことが家族にとって救いになったという経験もあります)

「形見分け」は普通本人が亡くなってからすることが多いけれど、
「この人にこれをあげたい」と患者さんが思うのは、自分の想いを引き継いで欲しいという物語を紡げる。
物と人とに関わるストーリーです。

誰かに謝罪する、お礼を言う、直接言わなくても、手紙に託すでもいい。
これも、自分の人生のわだかまっていた出来事との妥協ですね。

自分のお葬式について、あれこれ注文を考える。
「自分が死んでいくこと」が自然に思えてくる。突然ではないような気がしてくる。

亡くなった後も、誰かと繋がっていたいと思う人は、お墓や位牌を残しておけばいい。
そうして、そこで誰かが自分に語りかけてくれると思える。

自然葬」という手段もある。
自分が自然の一部に戻って、その循環に組み込まれると考えれば、死=無と絶望しなくてもよいかもしれない。

実は私はもう何年も前に、自然葬の契約書を作って、最期の瞬間と葬儀で流して欲しい曲を集めてCDを作り、
自分の葬儀のプログラムを考え、生きている間は会えないけれど、実は「有り難う」「ごめんなさい」を言いたかった人々に手紙を書きました。
多分、これからまた書き直したりするのだと思いますが、何だか実際楽になったことが多いです。
自分の人生の出来事といろいろ「妥協」「和解」出来た気がします。すべてじゃないけど。実際死を実感しているわけではないけれど、今までこだわっていたことと向き合えた気がします。

◇「死は怖い」という患者さんには「何が怖い」のか尋ねてみる。
「苦しいのはイヤだ」という患者さんには、「痛みが始まる前に必ずお薬を投与する」と約束する。
ホスピスや緩和ケアに理解あるドクターのもとであれば可能ですし、痛みが始まる前に投与すれば薬量は少なくてすむそうです。
約束するだけで、患者さんはかなり心理的に安定し、いろいろ死への準備が出来るようになる。
「一人で死ぬのはイヤだ」という患者さんには「必ず私が傍にいます」と約束する。
もちろん100%実行できるわけではないが、約束するとやはり患者さんは安心できる。

◇「死んだらどうなるんだろう?」と質問されたら…
「私には死んだあとどうなるかわからないのですが、例えば、あの世があったとしてあなたが逢いたい人はいませんか?」と答えてみる。
どんな人と会って、何が言いたいか、それを語ることはその人の人生の物語である。

「唯物論者の皆さんに、是非分かっていただきたい」ということで、体外離脱のケースをいくつかお聞きしましたが、多分それを持ち出さなくても、ここまでの話でも十分なのではないか…と思うのですが、どうでしょう?特に、死後の世界が保証されなくてもいいような気が私はするのですが。

つまり、ターミナルの患者さんと死について語るとき、何も「前世」や「来世」を持ち出してストーリーをこちらが作らなくても、患者さんの側が自分で自分の物語を紡ぎ出すお手伝いができるのではないかと思います。こちら側が「あなたはこうです」と説明してしまうのではなく、患者さん自身に語ってもらうことが大事なのではと思います。

人生の辛さ、理不尽さ、そういったものと自分で和解してもらう
お仕着せのストーリーはご本人にも、残された方にもむしろ失礼になる気がします。
(少なくとも私は枕元でE原さんに霊視して、カウンセリングして欲しいとは思わないし、Eハラーの皆さんともお話ししたくない。誰に見守って欲しいかは自分で選ぶもん)

その他には…

日本の死にまつわる儀式は良くできているというお話し。
臨終、通夜、葬儀、初七日、四十九日、新盆、三回忌…三十三回忌というイベント、そして位牌や仏壇という装置。
何回も親戚縁者が集まって故人について語り合ったり、絆を作り出す。
位牌や仏壇やお墓は「早く死者のことは忘れなさい」ではなく、故人との新しい関係性を築き、悲嘆のプロセスを歩むことが出来る。

それらを取り入れて、例えば死期が近付いたところで、医療スタッフも友人も家族も集まり、パーティーを開く。
好きな曲をかけたり、好きな食べ物をとったりする。
患者さんが亡くなった後も、写真を中心にみんなでパーティーを開く。
以前、ストレスについてお話ししましたが、
・人間にとって一番大きなストレスは配偶者の死である(アメリカでも日本でもそうだった)。
・その結果、残された妻や夫は免疫機能が低下して、病気になりがちである。
・また、医療スタッフは真面目な人ほど患者の死を敗北と受け止め、バーンアウトしがちである。
という現象について触れました。
パーティーは、このような人たちの発症を防止するかもしれない。
こんな取り組みもあるそうです。

こういったお話しに興味を持った方々へ、本のご紹介。

死をみつめ、今を大切に生きる (単行本)
日野原 重明 (著), 遠藤 順子 (著), 宮家 準 (著), アルフォンス デーケン (著), 柏木 哲夫 (著), 高木 慶子 (著), カール ベッカー (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4393364643

私などガッチガチの唯物論者の頭で「自分の死=消滅」としか考えられないのですが、
宗教学者の宮家先生の考察、実際に終末期の患者さんと向き合っているシスターの高木さんのお話しは
大変わかりやすく、納得できるものでした。

死=消滅と考えた上で、それまでの間に何ができるかという考え方ですね。
自分の人生の出来事と和解し、自分なりの物語を紡ぎ出す。
それが今を大切に生きることに繋がるのだろうと思います。

というわけで、今回もなんかナガーイ記述になってしまいました。すみません。

次回7/30は、皆なぜそんなに「私の物語」「私の核」を探し求めなくてはいけなくなったのか、ということについて考えてみようかと思います。

しばらく暑さが続きそうです。
お互い夏バテしないようにボチボチいきましょうhappy01good

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