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2007年12月

11/21と12/5のご報告

こんにちは(*^。^*)

皆さん、お元気でお過ごしですか?

 私はとっくにインフルエンザにかかったみたいです。「みたい」というのは、まだウィルスが繁殖していない段階で検査に行ってしまったので、検査は陰性だったのです。しかし、さすがに39.5度を超えるのは普通の風邪じゃないから、やっぱりインフルエンザだったみたい…。お医者さんとイロイロ状態を検討した結果、すぐにタミフル服用。油断大敵でございますよ。手洗い、うがいに励みましょう。ノロウィルスの流行も激しく、大学や高校で注意を呼びかけています。

 「師走」となり、私もなんだかワサワサと忙しい毎日を過ごしております。
 それが決して「年末・年始」にかけての家庭的な用意ではないところが、いかにも「私」です。単に予定を入れすぎているだけです。明日は三谷さんのお芝居、明後日は宝塚の会総見…すべて昼間は講義している、という感じ(^_^;)。
 世間はクリスマスムード一杯と言うことで、今回期間限定で、SMAP大好き!な皆様のために、ブログパーツを一番下に追加してみました。クリックしてみてくださいね!

 更新までの期間で私にとって一番大きな出来事は、高校卒業以来音信不通だった私が、色々な人々に再会してきたこと…かな?今年は、ゼミの同期会も始めて催しました。なんか、そういう年代なんですかねぇ。皆さんご存じのように、顔の認知が極端に悪い私…行ったはいいが、ずっと付き合いのある友人と、○○くん位しか判別できず、会話はすべて手探り状態。高校時代が想起できず、話題について行けない(・_・、)。ごめんなさい、私を憶えて下さっていた方々。

 で、そのきっかけを作ってくれて、現在は中部地方在住(あ、書いて良いのかしら?)高校同期の○○くんが「インターネットの達人」として、コメントをイロイロ書いてくれております。皆さん、インターネットの世界の住人に習う良い機会ですので、やりとり読んで参考にしてくださいね。

 ○○くん、マメにブログをやっていて、私は頭が下がります。楽しい地元通信なんかあって。わたしの応援してる宝塚のK君の地元ってこともあり、親近感あります。私は怠け者なので、こんな風に2回分まとめて更新したりしてますけれど。

 まぁ、あの、2回分、連続性ありってことで、どうぞご勘弁下さいませ。

今回、私が講義で参考・引用した文献は以下の通りです。

※熊谷高幸『自閉症 私とあなたが成り立つまで
※熊谷高幸『自閉症からのメッセージ』講談社現代新書
※杉山登志郎他『高機能広汎性発達障害 アスペルガー症候群と高機能自閉症』ブレーン出版
※磯部潮『発達障害かもしれない』光文社新書
※山崎晃資『発達障害と子どもたち アスペルガー症候群、自閉症、そしてボーダーラインチャイルド』講談社α新書

●「共感性」の発達

「人は誰でも心理学者である」という言葉があります。
私達は無意識のうちに「今相手は何を自分に求めているのか?」とか「どんな感情を抱いているのか?」とか「どうしてそんなことを言うのか?」といったことを人とのコミュニケーションの中で読み取っています。相手の意図とか言葉の裏の意味とかを感じています。

それは「共感性」をもっているからですね。

IQが高い=頭がよい…という簡単な構図では人間の能力を測れないということは、パーソナリティについて学んでいただいたとき、度々述べて参りました。

おそらく、私達が社会の中で「より良く」生きていくためにこの「共感性」は不可欠な要素だと思われます。

世間の皆様は、心理学者なんだから人間の心がよく分かって共感できるというステレオタイプをお持ちのように私には思えます(良くそういわれる)。しかし、私が周辺をリサーチして得た結果は「人のこころが分からないから、研究者になったのだ」ということです。人のこころが分からない、共感性が未発達、自然に人間が不可解、だから研究してみよう…こんな具合なのではないかと。だから、心理学の研究者が優れた臨床家でもないし、優れた教師にもなり得ないということがしばしば見られます。ずいぶん早い時期からこのことに気付いた私は、この世界で生きて良いんだろうかと悩んでしまいました。⇒自戒も含め…。

では、どのようにして「共感性」を私達は獲得してくるのでしょうか。

その出発点は「共有注意」にあると思われます。
人の子どもは2ヶ月頃になると、大人があやすと注目したり、笑ったりするようになり、表情模倣などもでき、ひととの「やりとり」の萌芽がみられるようになります。

8ヶ月頃には自分の好きなオモチャや興味を持ったものを「見せる」「渡す」「受け取る」「いじってみせる」「指さす」ということを始めます。この「指さし」という行為、何気なくやっていそうですが、実はとても難しいことなのです。人間の他の動物では「指さし」という行為、まだ私が調べた範囲では報告がありません(身体構造の問題は大きいと思いますが)。

赤ちゃんは言葉を発する前に、お母さんに盛んに自分のオモチャや食べ物を「渡して」くれます。そして「返して」というそぶりを見せて、それはいったい何の意味があるのだろう、と思うのですが、それがコミュニケーションの始まりです。「自分」以外の存在に気付いて、その人間と自分が興味を持っているものを一緒に共有して喜びたいということです。

興味のあるものに、お母さんが目を向けていなかったり、いじれる範囲になかったら「指を指す」ことで注意を共有しようとするわけです。

「(お母さんが注意してくれるまで)待つこと・(一緒に楽しもうと)誘うこと・(これが自分が興味を持っているものだよと)見せること」これが「人とのやりとり」の出発点です。この背後には人間への興味・愛着・辛抱強さがあります。

この「共有注意」は人間だけのものかというと、どうもそうではなさそうで、私達の仲間にもそういう「心」の機能が備わっているのではいう記述をローレンツ(あの「刻印付け(インプリンティング)」で有名な動物行動学者)の著書の中で見つけました。

ウィーンの動物園に大人になってから捕獲されたオランウータンの♂がいました。人間に懐いていないので、掃除をするときは、注意をそらすため、天上に張り巡らせたパイプに バナナをつるしておくことにしていました。ある日、飼育係がいつものようにバナナをつり下げたあと、掃除を始めると、なんとオランウータンがパイプをつたってドアの方に移動しているのを発見しました。さぁ、大変。オランウータンの♂は大きくて、とても人間が勝てる相手ではありません。急いでドアの方に走っていき、何とかオランウータンがドアを突破するのを阻止しようとドアを押さえて助けを呼びました。そこに駆けつけたのは園長です。大の男二人がかりでも、オランウータンの♂がドアを押す力には勝てそうにありません。どうしよう!!!その時、園長は面白い行動をとりました。ドアを開け、オランウータンの目の前に立つと、オランウータンの背後に何か恐怖の対象がいるかのように後ろの空間を見つめて、叫び声を上げたのです。すると、オランウータンは思わず後ろを振り返り、その隙にバタンと扉を閉めて、一件落着。

 …つまり、オランウータンは、人間とのコミュニケーションに慣れていたわけでもないのに、「共有注意」をしたわけです。そして、おそらくは恐怖の表情、声の調子を読み取ったのではないかと思われます。指さしは出来ない(ナックル歩行ですから)けれど、視線によるコミュニケーションが成立するということでしょう。ここまでローレンツは言っていませんが。『人、イヌと出会う』という本の中にこのエピソードが出てきます。

さて、人間の場合ですが、自力歩行が出来るようになると、自分の世界が飛躍的に広がります。「ひと」「もの」が<いま・ここ>から出て行ったり、入ってきたりする、その現象をどうしてもお母さん達に伝えなくてはならない必要性が出てきます。そこで出現するのが「言葉」です。最初は一語文そして二語文・三語文と飛躍的に言葉の発達が見られます。

「パパ、来た」「ワンワン、行っちゃった」「ブウブウ、無い」「ニャンニャン、来る」
この二語文の中に、すでに時間・空間の概念が獲得できていることが示されています。
現在、過去、未来、ここにあるもの、無いもの…。

3才頃になると、時間軸はもっと長いものが必要になり、時刻やカレンダーが必要になってきます。自分の行動プランができるので、お母さんのそれと対立すると「イヤ」を連発するようになって、第一次反抗期と呼ばれるようになります。この段階で「わたし」は「あなた」に出会うことになります。二項関係が成立するわけです。「わたし」が感じたり考えていることと、「あなた」が感じたり考えていることは違うのだ、と気付き、「わたし」と「あなた」は独立した存在として認識されるようになります。同年代の子どもたちと遊び始め、その時には「わたし」と「あなた」は違うのだから、リードしたり、されたり、待ったり、待たせたりという役割交換が始まります。相手は必ずしも自分の事情を全て理解しているわけでもないし、自分もそうだと理解できるようになります。ですから、盛んに「質問」するようになるわけです。わたしは知らないけれど、相手は知っているという事を理解できるようになるからです。

4歳半頃になると、「わたし」と「あなた」もう一人の第三者の行動ラインを読めるようになってきます。この頃、能動文を受動文に変換させることが出来ます。
「わたしがAちゃんにオモチャを渡した」⇒「Aちゃんはわたしからオモチャを渡された」
それぞれの行動ラインを3つめの視点から眺められるわけです。
「わたし」と「あなた」の中だけでは世界は収まりきれなくなり、「彼ら」の中に入っていく必要が生じます。その時、「挨拶」という合図が必要なのです。
「はじめてのおつかい」で道が分からなかったとき、この年代なら「あの、すみません」と声を掛けることが出来ます。「彼」を「わたし-あなた」の関係に引き込むには、「あの、すみません」と声を掛ける「手続き」が必要になります。そうでないと、「彼」は「わたしたち」になってくれません。
この頃、「サリーとアンの課題」にパスすることが出来るようになります。

1.サリーとアンはとっても仲良し。サリーは今籠を持ち、アンは箱を持っています。
2.サリーはビー玉を自分の籠の中に入れて、部屋を出て行きました。
3.アンはその間にビー玉を自分の箱に移して蓋をしてしまいました。
4.サリーが部屋に帰ってきました。サリーはビー玉を探しますが、箱と籠とどちらを探しますか?

正解は「籠」ですね。サリーは部屋を出て行ったあとのアンの行動を知りません。だから、まず籠の中を探すはずです。サリーの行動ライン、アンの行動ライン、それを見ている私の行動ライン、この3つを同時に読んで、初めてこの課題に正解することが出来ます。

「わたし」「あなた」「物・出来事・彼・彼女」の三項関係が成立します。

ここで初めて私達は本当に他者の心を理解できるようになります。

自分とは立場の異なった人のこころを理解する…「心の理論」といいます。

「心の理論」が獲得されると、物語を楽しめるようになります。
登場人物の行く末を予測して、ドキドキハラハラします。
その人物の心情を理解して、泣いたり、笑ったりします。
サリーが籠を探してしまうのを「それは正解じゃないよ」と考えることも出来るわけです。
演劇や物語の中の登場人物本人より、それを眺めている「わたし」の方がより行動ラインを読めるのです。
こうして分析していくと、自然にやっている他者理解というのが、実はとっても複雑な過程で、発達の過程を数々乗り越えてきたのだと言うことが分かってきます。

共感性を獲得するのは、そう簡単な道のりではないのではないか…という気がするのです。

最近、チンパンジーの研究から、チンパンジーが「嘘をつく」、「だます」という行為ができることが分かってきました。「自分は知っているけれど他の仲間は知らない」ことが理解できないと、「ウソ」はつけないし、だませないのです。

子どもさんが自分に初めて嘘をついたことが分かったとき、お母さんにとってショックでしょうが、その中にはこういう発達過程を乗り越えたというサインも含まれているんですよね。もちろん、「嘘をついてはいけない、そんなことをされたらとっても悲しい」ことはちゃんと教えなくてはいけませんが。

「ウソの世界」を楽しめるのも、私達の貴重な能力なのかもしれません。

私の好きな宮藤官九郎さん(役者、脚本家、ミュージシャン)が週刊文春に『俺だって子どもだ!37才子育て苦行』というコラムを毎週書いているのですが、2才半の娘の様子を観察する視点が実に興味深いです。これまで書いてきたような子どもの発達段階というものがよくわかるように書いてくれるんです。ただの親バカじゃないですね。(週刊文春は私の半身浴の友)

例えば、先週号では、いまかんぱちゃん(娘の事ね)は『よるくま』っていう絵本が大好きって話題から始まっていました。
でも、ストーリーに興味があるわけじゃないから、ページは無作為にめくられ、すぐに最初のページに戻ってしまう。親にしたらとってもストレス(だそうです)。「よーるーくーまー」という語感が「どんだけぇー」に似てるなぁと思ってそういってみたら、かんぱちゃんも「どーんーだーけー」と言った。何でもいいのかよ!(とクドカンが書いてる)ある日、よく遊んでくれる役者さんがドラマに「悪者」役で出ていた。最初はテレビの画面をみて喜んでいたんだけれど、その人が人を罵ったり、ニヤリと悪意ある笑顔を見せるとたちまち涙を浮かべてベッドに潜り込んでしまった。まだ、「ウソの世界」「物語の世界」は理解できなくて、いつも遊んでくれる優しいお兄さんが画面の中にいるということだけ分かってる。でも、その表情からはただならぬ感情を読み取ることが出来る。こんな感じです。

●「発達障害」について

「発達障害」とは、知能、精神活動、運動機能などが脳の先天性の障害によって発達が遅れたり、障害されたりする状態を言います。

自閉症を中核としたその周辺の障害も含まれます。今、話題に上ることが多いのは、アスペルガー症候群、高機能自閉症と呼ばれる一群です。
高機能とは「とても高い能力」ではなく、知的障害ではない(IQが70あるいは85以上)ことを示します。またよくアスペルガー症候群と高機能自閉症は「軽度発達障害」と記述されますが、これが社会の中で生きていく上で必ずしも「軽度の障害」とは言えないところも、誤解されやすい部分です。

注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)などを含めるかどうかは、人によって考え方が違い、必ずしも統一見解はないようです。

この項では「自閉症スペクトラム」という用語を使おうと思います。スペクトラムは「連続性」を持っているということです。

それでは、なぜ自閉症スペクトラムは発達障害なのでしょうか。

自閉症スペクトラムはおそらく、上で述べた「共感性の発達」の部分に最も大きな特徴があると考えられます。

自閉症の特徴はウィングが指摘した「三つ組の障害」であると今のところ考えられています。
しかし、「自閉症」の症例が最初に紹介されてから20年余り、自閉症とは親の育て方が原因で自閉的(心を閉ざしてしまった)な子どものことだと考えられてきました。元々「自閉」とは、統合失調症の一つの症状なので、症例を報告したカナーやアスペルガーの頭の中にはこの疾患との何らかの関連性が想定されていたと思われます。この名称のために、誤解を受けやすいのです。

やがて、自閉症の子どもたちには脳波異常が伴うことが多く、典型的な自閉症の場合には知的障害も伴うことも多いことから、脳の先天的障害であると考えられるようになりました。しかし、今のところ、脳のどの部位にどのような障害があるのかは明らかにされていません。

1981年、イギリスのローナ・ウィングはアスペルガーの症例を改めて取り上げ、自閉症と同じ様な障害を持ちながら言語障害が認められない群が多数いることを指摘し、アスペルガー症候群と名付けました。
それまでは、知的発達、言語発達は社会適応を保障するものという考え方でしたので、それが認められない「アスペルガー症候群」「高機能自閉症」は全く視野に置かれず、「我が儘な子ども」「躾のされなかった子ども」「問題児」として扱われてきたと考えらます。

ウィングがまとめた「三つ組の障害」は次のようなものです。

「社会性の障害」…人との相互交流が出来ない、愛着形成が出来にくい、人の気持ちが読めないなど
「コミュニケーションの障害」…言葉の遅れ、会話の双方向性がない、比喩や冗談がわからないなど
「想像力とそれに基づく行動の障害」…こだわりの強さ、同じ奇異な行動の繰り返し、自己刺激行動、順序への固執、興味の限局、ファンタジーへの没頭、質問癖など

3つの障害はお互いに関連しあっています。
この3つの障害が認められるとき、「自閉症スペクトラム」と判断されます。

DSM-Ⅳの診断基準はかなり狭い範囲だし、行動面からの診断なので、この障害の本質を反映していない気がします。アスペルガー症候群ではDSM-ⅣとICD-10(WHO)では判断が違っています。子どもについて経験のない精神科医がマニュアルで安易にこの診断名をつけてしまっているんじゃないか…と思える症例もあるなぁと感じています。

自閉症スペクトラムは、まだまだ新しい概念で、これからもイロイロ変わっていくこともあるでしょう。

上で述べた「サリーとアンの課題」を考案し、自閉症スペクトラムに新しい視点を提供したバロン・コーエンは著書『自閉症とマインド・ブラインドネス』の中で次のように記述しています。

 「心の理論」が予定通り作られるためには、それに先だって共有注意が形成される必要がある。共有注意とは、母と子が、おもちゃのやりとりをしたり、向こうからやってきた犬を指さすというように、共に同じ対象に注意を向ける心の働きのことを言う。母子のこの様な関係は、生後9ヶ月頃に形成され始める。自閉症児の場合は、このような、人と人を結ぶ基本的な心の働きに弱さがあるから、それを基礎にして作られる「心の理論」も予定通りに形成されない。

 つまり、自閉症スペクトラムは、前の項で述べた「共感性獲得」の道で様々にハードルを乗り越えられなかった障害と考えられます。

最初の段階で、人との愛着が出来にくいので、指さしをしない、あやしても余り反応しない。人を自分の世界に引き込む必要性を感じないので言葉が出なかったり遅れたりする。時間や空間の概念の弱さがあるので、同じ環境・状態・刺激にこだわり、未来への見通しを持ちにくい。想像ということが出来にくい。ノンバーバルなサインを読み取ることが難しく、発することも難しいので、母親から「大人しい手を煩わせない良い赤ちゃん」と受け取られることもあるし、「反応のない育て甲斐のない子ども」と思われることもある。見えないもの、とくに他者に関して想像することが苦手で、冗談を額面通り受け止めてしまう。「あなたは素晴らしい!」と言われて、普通なら冗談?皮肉?本気?とTPOで色々考え、想像するところだけれど、それができなくて額面通りに受け止めて、その場にそぐわない会話になってしまう。

言葉の発達に遅れがないと言われるアスペルガー症候群の場合にも、最初の段階でこの躓きをもっていると思われます。

「サリーとアンの課題」で、コーエンは自閉症の子どもがそれをパスできないことを明らかにしました。自閉症スペクトラムが「心の理論」に関する障害であると考えられるようになり、自閉症に関する概念の一大転機となりました。

後に、これは「言語」と密接に関連がある問題なので、言語の遅れがある自閉症児がパスできないのは当然なのではないかという反論もあり、今度はもっと複雑な人間のストーリーについて自閉症スペクトラムの子どもがどう反応するか調べてみたところ、やはり、複雑でより日常の生活にありがちな状況で、自閉症スペクトラムの子どもたちは、人間の感情認知に関して、特別な誤答をすることが発表されました。自閉症スペクトラムが他者の心を読む能力の弱さを持っていることが改めて指摘されました。

もう一つ、私自身重要な要素だとおもっていることは「選択注意」の欠如という問題です。ずっと以前、『知覚』についてお話しをしたとき、我々は「ヒト」としての生活に適応するため、物理的情報をすべて処理するのではなく「選択注意」の世界で生きているということをお話ししました(「カクテルパーティー効果」などの例をあげました)。

自閉症スペクトラムの人々は、この「選択注意」をしない、できないようなのです。

先日、京大霊長類研究所のチンパンジーのアユム君(5才♂)が報道されていました。
『チンパンジーの子どもは大学生より頭が良い!』という報道のされ方でしたが、本来の研究の趣旨とは違います、多分。
瞬時記憶の容量はヒトは7桁±2だということは以前お話ししました。チンパンジーも同程度です。しかし、瞬時記憶というのは、我々の実際の生活ではそれほど重要ではありません。選択注意をすれば、自分に重要な情報だけを切り取って短期記憶⇒長期記憶というように蓄積することが可能です。
ヒトの子どもにも時々見られるのですが、「直感像」の能力というのがあります。
つまり最大限の瞬時記憶をそのままの形で保持できる能力です。
デジタルカメラでその一瞬を切り取った世界のようなものです。
アユム君は瞬時記憶の実験で大学生の成績をはるかに上回ります。大学生は、確かに「暗記」するのに最も適した時期ではあります。それは「何を憶えればいいのか」という選択注意ができるからで、必ずしも瞬時記憶が「暗記」になるわけではありません。
今回の松沢哲郎教授らの研究では大人のチンパンジーもヒトと同様に、瞬時記憶の能力は失われることが分かりました。アユム君は、「直感像」を持っているのです。私達が失ってしまった能力を。このことと「大学生より頭が良い」とは別問題です。

この「選択注意をしない」という特徴は、五感の過敏性につながります。
自閉症スペクトラムの子どもたちが気付いたときには、全ての情報が無秩序に氾濫する世界に生きていることになります。等価に入ってきてしまう情報から逃れるため、自己刺激行動をしてその刺激に没頭したり、人からの呼びかけに無反応になってしまうのだと考えられます。

この特性を成長しても強く持っていて、特殊な才能を発揮する場合もあります。
『サヴァン症候群』と言われます。
驚異的な記憶力でカレンダーや円周率を記憶したり、景色を後で忠実に再現できたり、1回聞いただけの音楽を再現できたりします。
知的障害を持っている人にも時に見られます。

今まで「障害」という言葉を慣例として使ってきましたが、どのように表現したらよいのか、悩みます。個性の延長と考えるべきなのか、生まれつき「人間社会」で生きていくのにハンディキャップを持っているのだから、「障害」として考えるべきなのか。
クレッチマーの分裂気質(あるいは分裂病質というべきなのかも)と重なる部分も多いのではないかと思います。

親の立場としても、どう理解していくか難しいと思います。
自分の子どもはハンディキャップを抱えた「障害者」として周囲が接した方がいいと考えるか、個性としてこの様な子どもも認めて欲しいと考えるか…。
今、高機能自閉症やアスペルガー症候群が注目を集めているのは、これまで「問題児」として扱われることが多く、親も「躾がなっていない」と自分を責めたり周囲から責められることが多く、親子共々辛い思いを抱えて生きてきたということがあるからです。これらの子どもたちが早くに療育を受けると、社会適応がよりスムーズになるということは指摘されており、なるべく早期発見し、障害に応じた療育がなされた方がいい、「障害」だから親の責任でも子ども自身の責任でもなく、周囲の理解を求めるべきだという考え方が発信されるようになりました。

横浜市では「指さし」の項目を1才6ヶ月検診の項目に取り入れて、早期療育へつなげる成果を上げているそうです。

私自身も「障害であることが分かって今までなぜこんなに生きづらかったのか分かって良かった」とおっしゃる方・その親御さん、「障害とは考えたくない」という方・親御さん、両方にお会いしてきました。私自身、いまだ結論は出せていません。

皆さんにも考えていただく材料として、大人になったアスペルガー症候群ではないか…と疑われる人と結婚している知り合いの話を紹介しておきます。

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 確かに私は小さい頃からシャーロック・ホームズが大好きで、ボーイフレンドも「変わったヒトだね」と他人から言われることが多くて、偏屈な人間に惹かれる傾向はあったと思います。彼のニヒル(だとその当時は思っていた)で理路整然とした理屈が、私と正反対だぁ、お互い足りないトコロを補い合って行けるかもと思いました。けれど、結婚するときからすでに今の状態を予測できることはありました。ここまで来て、「結婚したいかどうかわかんない」ってどーゆーこと?と思いましたし、ワタシは傷つきましたね。でも双方の親が「あなた達、いい歳していい加減にしなさい」と介入して結婚しました。付き合っている間はこの人は極端に分裂気質なんだと理解できてるつもりでした。ところが、一緒に暮らしてみたらなんか想定外のことが多すぎて…この人を「異星人」と表現するしかないような違和感を感じました。「量」じゃなくて「質」でワタシの接してきた様々な人々と隔たりがあるんです。まず、ワタシに慣れてくれないというか、なついてくれないというか…。もう知り合って20年以上たつのですが、未だにワタシに大仰な丁寧語で話すんですよね。ワタシたちが話しているのを聞いていた知人はまさか配偶者とは思わず「お知り合い?」と真面目な顔で聞きましたもん。なんか、会話が不自然なんです。「親しみ」という感情がこの人にはあるのか?と思います。感覚について何事にもすごく敏感で、ワタシが声をかけないで近づくと驚愕反応を起こして、びくっと怯えた表情で飛び上がるんです。最初はおもしろがってましたけれど、そのうち何かそれって私に対して失礼じゃないの?と感じている自分に気付いてしまいました。テレビが大好きでよく見てるんです。特に、ドラマが好きですね。だから、この人は実は共感性があるんだと思っていました。でもよく観察していると、どうも演出や役者の意図を読み間違えてるんじゃないかと思える場面を度々観ることになりました。ここは笑うところじゃないよね?というところでニタリと笑ってるんです。ノンフィクションは余り好きじゃないですね。この間、パンダの子どもが日本の動物園を離れて中国へ帰る場面を放映していたのですが、パンダの可愛さより、今まで世話をしてきた飼育員達が感極まって泣いてしまうところがクローズアップされていました。「何で泣いちゃうの?」というのがつぶやいた一言でした。私達はそれを見て、いかに飼育員達が愛着を持ってパンダの世話をし、成長を願いつつも別れを悲しんでいるかを感じて感動するんですよね?それが理解できないみたいなんです…テレビをつけていたりすると、私の声とテレビの音声は同じ大きさになってしまうらしく、私の話を理解できないんです。以前はテレビを消せ!と怒ってましたが、なぜ消さなきゃいけないのか理解できないみたい。音声を下げて、興味がありそうな雑誌の記事なんか「ねぇ、これ見て」と差し出したりすると、一応受け取るんですけど、テレビの画面にどうしても目が行っちゃうんです。「そんなにこの番組好きなの?」と聞くと「別に好きじゃない」というので、視覚刺激につい吸い込まれちゃうみたい。こだわりが強いんですけれど、なぜこだわるのか、私には理解できないことが多いです。ある場所は整理できていないと、自分のこだわりで片付けちゃうんですが、私の物も入っていたりするので、後で探すのが一苦労。どういう理屈で片付いているのか分からないので。釘とか金具が大好きで細かくケースに分別してるんですけれど、どう考えても我が家には必要ないんですよね。自分の机がグチャグチャで、もう必要なさそうな物があっても全然構わないみたいです。私はなるべく触らないようにしてますけれど。不器用で、特に指先の細かい作業が苦手。年中怪我ばっかりしてるんですが、不思議と痛さには鈍感です。着るものなんかには、一段と敏感です。ちょっとでもチクッとする肌触りがすると大騒ぎ。だから、新しい物はなるべく着ないし、同じ形の物じゃないとイヤみたい。シャツの襟の感触とか、靴下の口のゴムの感触とか、イヤとなったら絶対に身につけません。たとえ、プレゼントであっても手を付けることはないですね。私はもう早々にプレゼントはしないことにしました。だって、あげても困惑した表情を浮かべるだけなので、かえって頭に来ちゃうんです。彼の方も、私に何をプレゼントすればいいのかすごく困るみたい。「私の気持ち」を想像するのがものすごく難しいらしいです。これだけ一緒にいるのにね。私の感情は「怒っている」の一通りになってしまいます。気分が悪くても、悲しくても、悔しくても、落ち込んでいても「怒ってるの?」です。自分のそういう特性で、私を怒らせていることが多いことはわかっているみたいです。だから、とりあえず「怒ってるのかな?」と思うことにしているらしいです。なかなか、感情の説明をするのは難しいし、説明しても具体的な場面を言わないと分かってくれません。冗談らしきことは喋りますよ、いわばシニカルな評論ですね。私にとっては面白いけれど、他の人が聞いたら「なんて人なんだろう」と思わないか、外では冷や冷やします。ほとんど視線を合わせません。未だに目をみてしまうと向こうは困惑して、目を伏せてしまいます。食事の時、4人掛けの席で、私の目の前じゃなく、ずらして座ります。人間にとって「あなたとは親密な関係じゃない」という身体言語じゃないですか、それって。だから、途端にムカっとするんですが、その後で、ああこの人は私とは違う次元で生きてるんだと考え直すようにしています。テレビをみていて、よく私に質問するんです。これがコミュニケーションなのかな?と思っていたんですが、よく考えると、すごく一方通行です。広辞苑ひかなければわからないようなことばっかり矢継ぎ早に聞くんです。辞書ひいて答えてあげて、これでコミュニケーションできるのかな…と期待してると、「ふーん」で終わっちゃって、会話は発展しないんです。目の前にいる私は、人間じゃなくてただの電子辞書か!と言いたくなります。
 彼の家族から、「子どもの頃言葉が出なくてどうしたんだろうと思っていたら、突然道を走る車の名前をスラスラ喋り始めたので、天才なんじゃないかと思った」とか「不器用でパジャマのボタンをかけられず、ずっと妹にやってもらっていた」、「不器用で、ギクシャクしてて、怪我ばっかりしていた」という話を聞いて、なるほど…と思っちゃいました。
 なんで結婚したんだとよく聞かれますが、その「こだわり」「理屈」「評論」は私にとって面白いことが多いです。では、「夫」としてどうかと言われると困りますね。「将来の事なんて分からないから、あなたのことも責任は負えません」と真顔で言っちゃいますから。確かに正しいんですけれど、夫婦って「でも、何とか一緒にやっていこうね」と思いこまないと一緒にいられませんものね。
 やっぱり辛いのは「感情が通い合わない」ことかな。私にはこころというものが存在していないと思ってるのでは?と感じてしまうことが多いので。私の「思い」を聞いても反応できないし、自分の考えや感情を表現することもありません。人間誰でも自己中心的なもので、勿論私だってそうなんですが、なんか「質」が違う気がする…。夫だと思わなければ、私にとって愛すべき、面白い人間ですけれどね。障害があるんだと考えるべきなのか、性格の問題なのか…どう考えたら良いんでしょうね??

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皆さんはどのように感じますか?

自閉症などの発達障害を持った人たちに対し、ハードルを乗り越え、このような特徴がみられない人たちを「定型発達」と表現します。
「定型」にちゃんと発達する人っているのかな???という気もしてしまうし。
誰だってどこか歪んでいて、まったく「普通」の人は存在しないわけだし。

ただ、こういう人たちが存在していて、マジョリティの社会に適応するのが難しいと感じていること、私達が一方的に「共感」を押しつけても無理なのだということは理解しておかないといけないのというこどでしょうか…。

●次回の話題 

「人の話を聴く」ということについてお話ししたいと思います。
確かに「聞いて」もらったんだけれど、本当の意味で「あぁ、聴いてもらったなぁ」と納得できる事ってあんまりないのでは?

本当の意味で人の話を聴くってどういう事なんでしょうね?

色々な理論・技法がありますが、日常生活に応用可能な方法として『マイクロカウンセリング技法』をご紹介したいと思います。

2回分まとめてやったら、やたらと長いブログになってしまいました。反省\(__ )

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