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2007年10月

お知らせ~

次回の話題ですが…せっかくの機会ですので(?)、『情報化社会の利点と人間の攻撃性について』としたいと思います。社会心理学の様々な実験・研究からの知見をお話ししますね。この分野については、中級でもあまり触れなかったと思うので。

「共感性」問題はその次の回に回しまーす。

皆さん、楽しいティータイムを楽しんでいらしてくださいね。私は頑張って講義してきます(/_;)。

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10/3と10/17のまとめ

こんにちは~。

ええと、前回の分のブログ、さぼってしまいました。

なぜなら…お察しのように花組公演と雪組公演で大劇、ドラマシティ(大阪)、市川(雪組全国ツァー)と渡り歩いていたから(^_^;)です、スミマセン。

●春野寿美礼さんのさよなら公演報告

『アデュー・マルセイユ/ラブ・シンフォニー』です。どちらも、サヨナラ公演なんだ…と思って観ると、泣けてきます。

『アデュー・マルセイユ』は、ソフト帽にロングコートにスーツ、ギャングに国際警察機構に拳銃に友情…男役のカッコイイ良く見えるところをギュッと集めてみました、という感じ。

「♪秘密と孤独は背中合わせ 2つの間に身をすり寄せ 心閉ざして生きてきた」
相変わらず「孤独な男」が似合う春野さんです。

でも、故郷マルセイユでその孤独の鎖をほどき、桜乃彩音ちゃんと恋に落ちる。
しかし、春野さんは「離れていても、僕は君を思うことができるし、僕も君を思うことができる」そういって、「君は君の未来に向かって進んでいくんだ」と微笑みながらそっと彩音ちゃんの背中を押すのです。残る彩音に、去っていくオサ…その姿を重ね合わせて⇒泣く(T.T)

幼なじみy役で次期トップの真飛聖さんとの最後の場面。
「ここでいい…ここで見送ってくれ」
「俺たち、ずっと友だちだもんな!」
「♪アデュー・マルセイユ 懐かしの街 アデュー・マルセイユ 我が故郷 お前を忘れたことなど一度もない どれほどお前が懐かしいことか」
唄いながらオサは銀橋を通り、舞台に残っている花組生みんなを振り返って見渡すのです。マルセイユ=宝塚 ファンjはそう思って歌を聴き、花組生とオサの別れを思うのです。⇒泣く(T.T)

『ラブ・シンフォニー』

全員での群舞が楽しいショーです。
花組十八番の男役の黒エンビの大階段も見物ですが、娘役さん達の群舞も綺麗です。

「♪胸に蘇る想い出と共に 新しい旅立ちに愛を歌う」
いつもなら目が無くなっちゃうくらいニッコリして銀橋を渡るオサなのに、なんだかものすごくしみじみと客席全体を見渡すんです。⇒泣く(T.T)

「♪僕を許して欲しい 愛しい君との別れが訪れることを そして忘れないで欲しい 君のことをいつまでも思っていることを」こんな感じの歌をデュエットダンスの場面で歌います。
私達ファンにも言ってくれてるのね(ファンの妄想?)⇒泣く(T.T)

というわけで、どうにもこうにも、やっぱり泣けるのでした。結局、ずっと泣いてる訳ね。宝塚のサヨナラ公演ならでは涙なのでした。でも、私より大泣きして帰った方が約1名…ねd(^-^)…貸切公演のチケット、当たったら、皆さんお誘いしますので。

●雪組『シルバー・ローズ・クロニカル』

彩吹真央さんは、庶務課に勤務するダサダサのオタクっぽい男の子。ちょっと今までにやってなかった役柄ですね。
それを取り巻く雪組生も、なんかみんなおかしなキャラクター。
若い先生らしく、コミカルで楽しいお芝居です。必ず場面ごとに笑いがあります。

青年館公演は10/23~29です。チケットまだ間に合うので、見に行ってやってください~。

●『メディア・バイアス-あやしい健康情報とニセ科学』輪読会 第7章~11章

本題です。前置きが長すぎるって。

最近「スローフード」「スローライフ」なんて言葉が流行です。
その土地の食べ物や文化を大切に、ゆっくりゆったり生きましょう…確かに素晴らしい考え方なんですが、それが一種のムードを伴った流行現象になっているっているのはどうなんでしょう?「オシャレで楽しい」コンセプトになってませんか?

本当に「昔は良かった」のか?
「お醤油・お味噌」日本文化の代表になっているこれらの調味料、実は戦後大豆を大量に輸入し、大量生産してから庶民も美味しく使えるようになったようです。日本でそんなに大量の大豆を作っていたわけではなかったし、保存料や冷蔵庫がなかった時代は何しろ塩を沢山使うしかなく、「美味しい」なんて言えるものではなかったようです。そして、冷蔵庫なんて無かった時代、その土地で作れる野菜の種類も限られていたし、時期も限られていた。「ばっかり食」が多かったし、保存のために塩漬けしたと思われます。

そのため、日本人の死因はつい最近まで「脳卒中」や「心筋梗塞」なんかが上位を占めており、平均寿命だって低かったわけです。

今、昭和30年代ブームがあったりするのは、その頃の人と人の距離の近さを懐かしんでいるのかも知れないですね、皆さんがおっしゃっていたように。その頃の生活自体に憧れるのは「幻想」に対してなのかも。

「幻想」といえば、マイナスイオンも『水からの伝言』も「科学的」にはなんの根拠も無いってありましたね。でも、私達の生活の中にはマイナスイオン付きの電化製品が沢山あるし、水関係の様々なビジネスがあります。「ストレス対策」とか「血液サラサラ」とか言われてしまうと、根拠も曖昧なままつい「イメージ」につられてしまうことが多いようです。
もちろん、何を「信じる」かは個人の自由ですが、なんとなく根拠が曖昧なままイメージだけで高いお金を支払ってしまうのは馬鹿らしいですよね。

特に、科学の衣をまとって結局は背後にビジネスがあるということに気をつけなくちゃいけないようです。マイナスイオンもたどりにたどっていくと、「北大の○○教授の研究によれば…」なんてもっともらしくHPに説明が書いてあるけれど、それは帝国大学時代の話で、潜水艦の排気に関する研究で、ずっと誰も取り上げなかったものだということです。

ずっと誰も取り上げなかったということは、科学の世界では研究に値しないとみんなが評価したということで、おそらくはボツになっているんです。現代になって「隠されていた真実」が発見されるということは、ほとんどあり得ません。血液型性格学も、ボツになった研究を現代に科学らしき衣をまとわせて蘇らせたものです。

買い物に行くとお豆腐に「遺伝子組み換え大豆は使用していません」と書いてあります。これって何でしょう?普通、「遺伝子組み換え大豆は危険なのね」と思ってしまうのですが、そうなのでしょうか?

国外からの農作物を入れたくないという思惑が背後にあって、その趣旨に合う研究(とも言えないようなもの)を市民団体が利用している側面があると思います。

もちろん、遺伝子組み換え作物が私達の体内に入ったときに、どのような影響があるのかを検証していくのは大変重要なことです。また「遺伝子操作」という技術そのものに関して、倫理や哲学の観点も交えて議論が必要なんじゃないかと思います。しかし、今日本でこの「遺伝子組み換え」について反対を表明している団体の主張は「種を超えてしまった作物が次世代にどんな影響を及ぼすかわからないから許せない」という感情的に女性の不安を煽る内容になっていることに疑問を感じます。もうちょっと理性的な主張に出来ないものでしょうか?

その根拠になっているのが、ロシアの神経学者による「予備的研究」と題された遺伝子組み換え大豆を餌に用いたラットの研究です。しかし、きちんと読んでみれば、かなりずさんな研究だというのが、専門家の意見です。普通、学術論文というのは、きちんとした場(学会発表、学会誌への論文掲載など)で専門家同士の批判や追試を受けて、初めて「学術的に価値がある」と認められるものです。講演会で一般市民を相手に「癌や不妊、新生児の死亡率が高くなる」という飛躍した主張を行うことは、研究者の倫理に反します。こんな主張を聞かされたら、特に出産を直接担う女性の不安を煽ることは必然です。でも、その予備的研究には科学的に正当な根拠がほとんど認められません。英国食品基準庁も「学術論文として発表されれば再検討する」と発表しているそうで、きちんと学術論文として同様な結果が出るとしたら、これは私達も耳を傾けるべきでしょう。現在のところでは、遺伝子組み換え作物の次世代への危険性を指摘する学術論文は出てきておらず、国外では特に規制は無いようです。何故日本だけ、豆腐などの特定の食品に、原材料として入り込む可能性は無視して表示義務を作ったのでしょうか?何となく、圧力団体の主張に押されて小手先の政策で対処しているように感じます。国産・根拠のない安心感という付加価値で高くなる食品を買っている私達の立場はどうなるのでしょう?なぜ?っていう疑問を持ちたいですよね。一体何を根拠にこのような処置がとられたのか?日本でどんな研究が進んでいるのか?

「食糧自給率を高めるために、国産の作物、国内の農家を守ろう」という主張なら、私達は受け入れられると思うのです。食糧自給率がこのまま低くなっていけば、いざというとき日本が危機に陥ることは以前から指摘されてきました。一所懸命、狭い土地の中で努力している農家に方々に尊敬の念を持つことは大切だし、食糧自給率について私達が考えて消費活動を行うことも必要だと思います。でも、それが感情的に不安を煽るキャンペーンに飛躍するのはどうなのでしょうか?

「天然のものだから良い、化学物質は怖い」という単純思考は、結局私達に不利益をもたらしていることも多いと思います。

エタノール燃料も近頃の「エコロジー」の風潮に乗って受け入れられています。しかし、その影響が私達の身近なところで物価の高騰という現象になって跳ね返ってくるという現実があります。「エコロジー」というと誰も反論できないし、異議を申し立てると何となく意識の低い人という評価を受けてしまうのですが、地球全体の人口問題、食糧問題、気候変動を考えて、本当に「エコロジー」なのか、よく検討する必要があるのではないでしょうか。

私達の「健康」のために「パーム油」が輸入され、熱帯雨林が無くなっていくのって、どうなのでしょう?おそらく、気候変動に影響を与えるでしょう。食料にできる土地を切り換えて、エタノール燃料用のトウモロコシを栽培して、工業立国の二酸化炭素排出量の削減のために回し、大規模農家が豊かになる構造はどうなのでしょう?地球規模で考えた場合、それは今理性的な判断をした上で最良の選択なんでしょうか

「エコロジー」「食料の安全問題」の背後に、様々な政治的な思惑、利益を得る人々の思惑が絡んでいることも良く考えた上で、賢い選択をして行かなくてはいけないし、異議を申し立てることも必要だと思います。

『不都合な真実』という映画も、一般的には好意的に受け入れられているし、趣旨に反対する訳ではありませんが、「科学的に誤解を与える描写がある」という科学者達の指摘がなされていることは、あまり報道されていません。

「マーガリン」に対する批判も、誰から発信されているのか(まぁ、自然食品を売っていた人だってことは?…何が目的として隠されているかわかりますよね)、「顕微鏡で組織を見るとプラスチックに似ている」「虫が近寄らない」から「プラスチック食品だ」というのは、何だか飛躍しすぎているし、扇情的だと考える必要があると思います。それよりも、「トランス脂肪酸は心臓疾患のリスクを高めるという研究結果が認められているので、今現在の平均的な日本国民の摂取量では問題はないが、極端な摂取には気をつけるべき」というような冷静な情報提供がなされるべきでしょう。今のところ、癌やアレルギー疾患との相関を示すデータはありません。

科学は「真実」ではありません。ただ、これだけ科学技術に頼る生活をしている私達が「科学は分からない」で済ませていては、それを自分の利益のために科学めいた宣伝・アジテーションを不当に利用している事を見抜けないし、ムードや感情に流されて結局は不利益を被ってしまうことだってあるのです。そうした意味で、どのように私達は科学を賢く利用し、科学と折り合っていくかという考え方を持つことが必要だと思います。「科学リテラシー」ですね。ムードや感情に流されることなく、ちょっと客観的に一歩退いた視点を提供するという点で「科学的に考えてみる」という思考方法は有効だと思います。

マス・メディアはどうしても受け手側の不安感を喚起し、劇的な効果を持つような記事・番組を作ります。そして、私達の側も、自分の持っている知識・態度に合致する情報は受け入れるけれど、合致しないものは無視してしまう傾向があります(認知的不協和理論)。こうして二重に歪みが生じます。

それでは、私達はどうしたらよいのか?
松永和紀氏の主張は次のようなものです。
1.懐疑主義を貫き、多様な情報を収集して自分自身で判断する
2.「○○を食べれば…」といった単純な情報は排除する
3.「危険」「効く」など極端な情報は、まず警戒する
4.その情報が誰を利するか、考える
5.体験談、感情的な訴えには冷静に対処する
6.発表された「場」に注目、学術論文なら信頼性は比較的高い
7.問題にされている「量」に注目する
8.問題にされている事象が発生する条件、特に人に当てはまるか考える
9.他のものと比較する目を持つ
10.新しい情報に応じて柔軟に考えを変えていく
『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀著 光文社新書 p.255~266

・とりあえず、情緒に訴えるような宣伝・報道・番組には距離を置いてみる
・本当に自分にとって利益をもたらすのか、他の人を利する結果になるのではないか考え  る
・「絶対」はあり得ないことを考える

こんなところじゃないかと私自身は思います。

科学者自身の倫理も問われています。これまで、学問の世界では研究者自身の倫理観に全て委ねられて来ました。しかし、あちこちで論文の盗用やねつ造問題などが起こっていて、改めて自分たち自身の倫理観を問い直さなければいけない時代になってきました。

これまで、科学者は、専門家じゃない人を敢えて攻撃しない、学術的な公式の場以外での同業者の発言については問題にしないという態度でした。

しかし、このままではいけないと考える研究者たちが、比較的自由度の高いインターネット、ブログなどの手段を通じて情報を発信するようになってきました。しかし、これって自分自身の業績にはならないし、いわばボランティアみたいなものです。そういう人たちのブログなんかを覗いて見ると、インターネットの世界特有の、匿名性に隠れた「言いがかり」「攻撃」があって、大変だろうなと思います。

心理学の場でも、「血液型性格学」が余りにも一人歩きしてしまったとき、大規模な実証研究を行って科学的根拠はないということ、「当たる」と思わせる心理的トリックが用いられていることなど学術的な手段で情報を発信してきましたが、「心理学者ってヒステリックで心が狭い」という評価をいただいただけで、別段世間で話題になることもありませんでした。結局私も「私ってA型だから~なんですよ」と言われても「へぇー、そうなんですか」と笑って受け流すだけになっています。反論するだけ、ムダという言うか、特に人が信じているものを否定する気にもならないので。自分に不利益にならない限りは抗議はしません。

しかし、こうした「心理学もどき」が一人歩きしてしまう怖さを皆さんには知っていただきたいし、生身の人間を扱う、それもなかなか被害の見えにくい「こころ」を扱っているからこそ「科学的思考」を使って謙虚に慎重にやっていこうという姿勢を、基礎から心理学を学んできた人間の多くは持っているという事を理解していただければと思います。

心理検査にしても、おもしろおかしくゲームにしてしまうことは可能ですし、それはそれなりに楽しいでしょう。でも、心理検査でわかることなんて、わずかことだし、その信頼性だって、私達自身が限界を感じています。「ストレス」「健康」「病気」「治る」「癒し」なんてキーワードを組み合わせて使えば、いくらでも人のこころを操作できてしまいます。まして、「専門家」の肩書きが付けば。

別に私は「化学」「遺伝子学」「分子生物学」「環境学」などの専門家では無いので、本来それらについて語るのは避けなければなりません。しかし、ここは「ブログ」なので、「個人的感想・見解」として記述することは許されていると考えます

逆に言うと、インターネットの世界では、いくらでも無責任な発言が許容されているということです。学校でインターネットを使った授業も行われますが、先生自身がインターネットの世界の怖さを知らなすぎると思います。「読み・書き」については教えても「批判力」は教えないし、先生自身意識していないのでは?と思います。

インターネットの世界もその怖さを知った上でうまく利用することが必要です。

参考までに、総務省では「国民のための情報セキュリティサイト」というのを開設しています。お子さん向けのコーナーもあるので、有害サイトやインターネット上の犯罪などについて話し合う機会にしてみてはいかがでしょうか。http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/security/index.htm

今回は、「健康」「食品」など、皆さんの身近にあるものから「科学的思考」の必要性を考えていただければ…と思って企画しました。私が一気に喋ってしまったのでは、「なるほど」と感じていただけても、なかなか身に迫った問題とは思っていただけないかも、と、それぞれレポーターを務めていただくことにしました。皆さんにはご負担をおかけしたことと思いますが、ご理解いただければと思います。ご協力ありがとうざいました。<m(__)m>

こういうことが、本当は、皆さんにとって最も身近で興味を持たれる話題ではないかと思うのですが、いかがでしたか?時には、こうした「新書版」でさまざまな学問のエッセンスに触れてみることをお奨めしたいと思います。皆さんのご意見、感想など、十分な時間が取れませんでしたので、是非コメントを書いていただいて、皆さんで話し合っていただければと思います。

お待ちしてま~す\(^^@)/

●次回からは…

私達はいかに「共感性」を発達させるのか、という問題についてお話ししていきたいと思います。「人には感情がある」「人には私と違ったこころがある」「人の考えや感情を読み取る」…当たり前だと思っていることですが、ここまで達するには結構険しい道のりを乗り越えてきたのだと言うことを、「心の理論」などの知見からお話しします。そこから、「発達障害」といわれる現象が、どこにつまづき(障害という言葉が適切かどうか、私自身ちょっと抵抗を持ちますが)が起こっているのか見えてきます。

●今回はちょっと「季語」の話など…

俳句では基本的に17文字の中に1つの季語を入れます。俳句とは、季節感を味わう詩だからです。

「花」という季語は、これだけ書くと「桜」のことを指します。春の大季語です。日本人にとっては「桜」こそが花なんですね。

『古今集』にある
「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん」
という有名な歌の「花」は花一般ではなく桜のことです。(古典で習いましたよね、昔)
花冷え・花見・花篝・花衣・花守・花人…何だか美しい言葉の数々ですね。これらもすべて春の季語です。

 禅寺の鐘が鳴るなり花月夜

これは今年の春の私の句ですが、「花月夜」で桜が咲いて月が出ている晩の情景です。

でも、これが「お花畑(お花畠)」となると、雪渓や高原に咲き乱れる高山植物の花々を指し、夏の季語となります。ハイキングや登山を趣味にしていらっしゃる方にとっては、心にしみる風景なのではないでしょうか。

そして、「花野」になると、秋の草花がちょっと寂しげに広々とした風景の中に咲いている様を指し、秋の季語となります。

 炭坑の廃線を抱く花野かな

今年北海道に行って、小樽で作った句です。昔は小樽港に石炭が列車で運び込まれ、船に積まれて日本の工業化への原動力となりました。今では炭坑は廃され、輸送手段だった鉄道も線路だけが残されていました。線路跡に残る石の間から小さな秋の草花が花を咲かせていました。

「花」という言葉一つでも、日本人はこんな風に使い分けて季節感を味わっていたんですね(*^_^*)。

春が「花」なら、秋は「月」です。

他に季語がなくて「月」が出てきたら、それは秋の月を指します。「仲秋の名月」は陰暦8月15日の月で、一年中でこの月が最も澄んで美しいとされてきました。名月・明月・満月・望月・十五夜などとも言います。

 斑鳩の古りゆく塔に今日の月

これも私の拙句ですが、「今日の月」は仲秋の名月のことをいいます。昔の人々がどれくらいこの日の月を待ち望んでいたか偲ばれます。

陰暦8月14日の月は「待月・小望月」明日は名月だ!っていう感じが出てますね。仲秋の名月が曇ってしまえば「無月」、雨ならば「雨月・雨名月・雨の月・月の雨」とそれぞれの風情を楽しみます。8月15日は「良夜・良宵・佳宵」、その翌日は「十六夜・いざよふ月」です。ためらうことを「いざよふ」というので、満月でないからちょっと出が遅れてためらっているという趣を味わいます。17日は「立待月」月の出を立って待つという意味。18日は「居待月」立ってもいられないので座って待ちます。19日になると「臥待月」もう寝て待っています。こんなに豊富な語彙があるってご存じでしたか?私は最近になって俳句のために「歳時記」をめくるようになって初めて知りました。お恥ずかしいことですが。

こんな言葉の数々が「歳時記」「季寄せ」という本に載っています。言葉の由来、例句など。日本語、自然に興味のある方は、俳句を作るわけではなくても、読んでいるだけで面白いと思いますよ(^^)V

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